1960年代から1970年代にかけて、世界は若者の時代であった。
第2次世界大戦が終わり、新しい価値観が求められた。日本国でも多くの若者が60年代にあふれかえっていた。進学率が上昇し高校へそして大学へ。人口比で若者が多数を占めた。戦争を知らない若者たち。圧倒的多数の知識層になろうとしていた。
新しい時代を若者が切り開こうとした。怒りの時代でもあった。親の世代をはるかにしのいで知識と技術を身につけ、こぶしを振り上げ徒党を組んだ。革命を本気で信じていた。そんな若者も少なからず存在した。愛と平和。love&peace
理想的な社会の建設を真摯に追い求め、議論し行動し、そして敗北した。
蹉跌の空を仰いだ。
80年代、我らが青春の頃。誰も何も語らなかった。もはや政治の時代も怒りの時代も収束し、語るべき手段も必然性も友人も自分自身も存在しなかった。それでとくだん不便もなかった。
それでもまだ、誰もが何者かになりえるような幻想だけは失ってなかったように思う。それが幻想だったとしても。
人生のイメージ。
今の高校生たちが描く人生のイメージについて。
今の我々の世代。つまり自分の親の世代の生活を超えて成長を続けている社会に暮らすイメージをもつことはない。
我々の時代、自分の親の生活を越えられないというイメージはさほどもたなかった。もちろん具体的に明確に想像していたわけではないが、社会そのものがまだ成長していくだろうとぼんやりと感じていた。
今の子供たちは違う。自分の親を越えた生活はもはや望めない。マックスで自分の親世代の生活が維持できればよいのになと大多数の子供たちが感じている。これも言葉にして明確に自覚しているわけではなく、ぼんやりとうすうす感じ取っている。
なぜならば、われわれは人間という動物だからだ。よいとか悪いとかではなくそれを感じ取っている。
つまり、われわれが暮らしている社会が成熟している、ということ。青い果実ではなく、旬の果実でもなく、熟した果実であるということ。樹木から出来るだけ地面に落ちることがないように工夫をかさねている果実であるということ。
何となく、みんなが共同幻想を抱き、未来を信じていた頃とは明らかに違う。
細分化し、多様化し、枝分かれしながらも、粉々になりはしないように懸命に互いを気に掛け合っているような社会に暮らしている。
私たちの文明はまだかろうじて踏みとどまっている。
蹉跌の空の外側で。
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